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田辺城跡:舞鶴公園

京都府舞鶴市字南田辺15-22

舞鶴市田辺城資料館 開館時間午前9時から午後5時 

休館日 毎週月曜日※その日が祝日の場合はその翌々日 12月29日から1月3日

入館料無料

駐車場:徒歩で行ったので不明(なさそうな雰囲気でした)

2011年4月

田辺城跡

田辺城跡

 

田辺城跡

田辺城跡

田辺城城門

現地看板より引用ここから

田辺城の天守閣の存在が確認されていないなかで、大手門・中門・南門・大内門・船着門の五城門は、田辺城を象徴する構造物であったといえよう。市では、舞鶴の歴史や伝統を生かした街づくりの拠点とするため、「ふるさと創生事業」また「舞鶴地名誕生120周年記念事業」の一環として田辺城城門を再建した。2階部分の田辺城資料館展示室では、細川幽斎を中心おした歴代藩主や庶民のくらしなど、城下町田辺の歴史を紹介している

ここまで

彰古館

田辺城パンフレットより引用ここから

彰古館は、山中丹治氏設計、有本国蔵氏の寄付により昭和15年に建設されました。

田辺城跡

田辺城跡

田辺城跡

田辺城跡

田辺城跡

田辺城パンフレットより引用ここから

近世の幕開けとなった天正8年(1580)、丹後国は細川藤孝、忠興親子の領国とです。細川氏は、現在の伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に田辺城を築きました。これ以降、田辺城は細川・京極・牧野氏の居城として約290年間領内統治の中心的存在でした。明治6年(1873)田辺城は廃城とされ本丸付近は現在、舞鶴公園となっています。また、「舞鶴」の地名は、田辺城の雅称(舞鶴城=ぶかくじょう)に由来しています。

細川ガラシャ:聡明な美貌で知られた明智光秀の三女・玉は織田信長の縁組取り持ちで、細川忠興と結ばれました。しかし、光秀謀反の一族であったため、多々置きは離縁・幽閉という形で領内の屋敷にかくまいました。これは、忠興が玉を守ろうとする苦肉の選択であったにちがいありません。玉は、二年後、秀吉に許されて、再婚の形で細川家にもどりました。関が原の合戦の折大阪の細川屋敷にいた玉は、夫の命に従い西軍の人質にとるという命令に死をもってこたえました。このことは婦徳の鑑と称えられ、世間の同情は細川家に集まったのです。

ここまで

復興された門の反対側には舞鶴警察署

田辺城跡

田辺城跡のすぐ近くにある明倫館(※藩校)の門が残る

田辺城跡

田辺城跡

田辺城跡

 




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